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無有と命の前に 先住犬のはなし

2009年08月30日 06:37  

無有と命の前に 先住犬のはなし

無有と命の前に 先住犬のはなし
↑ まだ若かりし頃の無有(3歳ごろ) この笑顔を出すために一体どれだけかかっただろう?

無有は今、(多分)二度目の犬生を歩んでいるのだと思う。
もし、私が無有を拉致しなかったら・・・。

無有との出会いは県の動物保護管理センターだった。

私は生まれてからこの方、犬のいない生活を知らないで育った。日本犬保存会や何やらの会の会長をしていた父の影響もあって、犬は大好き。多い時には50坪くらいの犬舎に50匹くらいの猟犬がいた。ほとんどは紀州だったが、セントバーナードもいたし、色んなのがいた。

父が引退し、犬たちも方々かに貰われて行き、次第に数が少なくなった。イノシシを追ったりしていた彼らも老犬になり引退。厳しい生活から隠居生活になり、その生を全うして、残りは1匹の紀州犬のみ、となった。

本日は、無有の前の犬の話をさせて欲しい。
その紀州犬は女の子で、名前は「りえ」と言った。
無有と5ヶ月間暮らした後、息を引き取った。享年17歳。
無有が来る少し前まで我が家は八百屋を営んでおり、家の中で飼うことは出来ず、りえは地下のシェルター(かなり住み心地はよい)にいたので、座敷犬の無有と一緒の生活、とは行かなかった。本当はりえも家の中に入れてあげたかったけど、りえにとっては既にシェルターが一番居心地のよい場所となっていたから却って家に上げることは酷な話だった。当然、何でもりえが先、と言うルールは守った。ご飯でも散歩でも。

りえの趣味(ある意味、病気)は放浪。・・・そう。放浪癖があったのだ。亡くなる1週間前まで裸の大将じゃ、ないがしょっちゅう頑丈な扉を抜け出して放浪の旅に出かけていた。勿論、注意はしていたのだが。
この辺はまだ田舎魂が残っていて、ご近所みんなが身内のようなもの、そんなりえにご飯をあげてくれたり、見かけると知らせてくれたり、本当にありがたかった。

年老いた事もあり、お食事は毎回無有のご飯とは別に、色々な具材を柔らかく煮込んで、更にフードプロセッサーにかけてフードと混ぜて食べさせていた。今、思うとよくやったなぁ、と自分に感心してしまう。死ぬ2日前まで頑張って食べてくれてた。

死ぬ3日前まで散歩に行った。既に小屋の入り口の前の細い側溝さえ跨げなかったが、バスタオルを下腹部に巻いて介助ハーネスもどきを作り、自分の足で歩かせ排泄をさせた。無有が5分で戻って来るコースを1時間半もかけて歩いた。

途中で突然発作みたいなのを起こして倒れてしまう事もあった。20キロ以上あった体重もその頃には私でも抱けるくらいになってた。

りえは腫瘍を持っていた。サッカーボール大の腫瘍をお腹に2つもぶらさげていた。その腫瘍は手術が出来なかった。年老いていたりえにとって手術の方がリスクが高くなってしまう、と言うのが理由だった。どんどん腫瘍は大きくなり、地面を引きずるくらいにまで成長した。どれだけご飯を食べても、りえは痩せていき、骨皮筋エモンになる。反対に腫瘍はと言うと憎らしいほど見事に成長をなしていくのであった。

紀州犬は猫などを見るとすごく興奮してしまうが、りえはすごく人間に対して優しい犬で、子供をやしんだりもせず、最後まで周りの老若男女に愛されていた。成犬になってから面倒を見始めたが、私に対して一度も歯を当てることも唸る事もなかった。無駄吠えもしなかった。代わりに番犬にはならなかったが(笑)。

そんなりえだけど、私が面倒を見たのは晩年2年間。最初は警戒して触らせてもくれなかったし、食事も食べてくれなかった。散歩なんてもってのほか。毎日、食事を運ぶ事から始め、シェルターに1時間以上もいた。そのうち、触る事を許可してくれた。それから長い長い時間をかけて最終的には口の中も、マズルも、足先や尻尾も、そして腫瘍でさえ触らせてくれるようになった。シャンプーする時でも、私のいる前では絶対にブルブルしないで我慢してくれていた。散歩も初めは私をバカにして引っ張っていたのが、信頼関係が出来てくると教えてもないけど、ヒールPを最後まで遵守した。そんなりえに私は「絆」や「愛」を感じ始めていた。(→続く)




次回は・・・無有とりえの出会った日からりえが死ぬまでの話をします。
無有の話に入る前にりえの事も伝えておきたいので、どうかお付き合いください。



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