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ブロガーさんに励まされ・・・

2014年07月01日 18:15  

ブロガーさんに励まされ・・・

私には認知症であるオバアサンがいます。
一緒に暮らしてはいないけど、オバアサンの日常生活のほんのちょっとだけお手伝いをしてます。
決して、私の場合、介護疲れとかそんな大層なことじゃないけど。
ブロガーさんの中に、色んな体験をされてる先輩方が大勢。
みなさんのコメントに本当に励まされ、支えられてる気がします。
いつも、ありがとうございます。



樋口了一さんの「手紙~親愛なる子供たちへ~」

いつもね。
オバアサンが我儘言いだしたり、怒りだしたりすると、この歌を思い出すようにしてます。
そう、私が小さい頃してもらったこと。それを、今度は私がオバアサンにしてあげる番なのね。

私はオバアサンのマトモだった時代を知っているから、なかなか認知症を受容れることができないでいました。
ふざけてトロイ事をしてるのか、人を困らせようとしてるのか、なんて思えてしまう事だって一回や二回じゃなかった訳です。

そんな時、この歌が発売され。
私の「オバアサンの認知症」への受容を後押ししてくれたのでした。
それからは一気に、オバアサンに対する対応が楽になりました。(気持ちの上での)

オバアサンが私にしてくれたこと・・・
ほんと、今しか、今だからこそ、お返しできるんだよね。

死んじゃった後のこと。私は人間がどうなるかは知りません。
死語の世界があろうがなかろうが、ま、そういうのは、いいです。
人が死んだ後も生き続けるとしても(スピリチュアルの、魂だとか肉体だとか、そういう感じで・・・)。
やっぱり人が死ぬと、この世での人と人とのつながりは終わるわけです。
そしてやがては風化されていくわけです。
どんだけ思いが強くても、人間の忘却機能とはそういうもので、それが現実です。
だからこそ、大切な人が死んでも、いつかご飯が喉を通り、いつか笑える日が来るわけです。
死後の世界が見えない私にとっては、やっぱり、この「今、生きてる」オバアサンを大切にすることが使命だと思う。
死んじゃったオバアサンは美化されていき、会話もできなくなっちゃうからね。

相手がいるから、諍いも起こる。相手がいなければ、諍いすら起こらない。
その諍いも自分に必要なものなのかもしれません。




Posted by 無有のかぁちゃん │コメント(8)
この記事へのコメント
久しぶりに樋口さんの歌声を聴きましたが、いいですね♪
Posted by 大門 at 2014年07月01日 18:45
仕事でよそ様の介護をするのと
在宅で身内の介護をするのって
やっぱり違いますよね。
私もいつかは両親の面倒をみる時がくるだろうし
無有のかぁちゃんの今日のブログ、深イイです!


ところで・・・もう1つ前の記事のソーダスパークル。
『レモン絞って入れてみん。もう気絶するしか道はない・・・。』の文。
もう気絶するしか道はない・・・って。
こういう表現大好きです!!!
笑いのツボ、ドンピシャです(^^)/
Posted by ☆ ゆう ☆ at 2014年07月01日 19:14
大門さん

大門君は樋口さん好き?
私はこの方の歌声、安定してて安心して聞いていられる感じを受けました。
Posted by 無有のかぁちゃん無有のかぁちゃん at 2014年07月01日 21:01
ゆうさん

ゆうさんの「笑いのツボ」ってやつの方が、私には可笑しくて。
なんか褒めてもらえて嬉しいのと、ゆうさんがただただ笑える・・・。
オモロイ方なんですね。笑

でも、ソーダスパークルはさ、本当に見た目からして完全に魅了されちゃう玩具なんです。
美味しい水で作ってん。もう、売り出したい気持ちがどんどん湧き出て放出してきちゃう。これ、メーカーより美味いやん、って自画自賛の嵐、間違いなし。笑

要は、二酸化炭素にブランドとか味の違いがあるとは思えないので。
炭酸なんてやつは、水気のモンに炭酸ガスを注入してるわけでしょう。
って、事は「素材」が大事だよね。
水と糖分とフレーバーじゃん。

最初、本当に気絶しそうになったもん。
で、夢だろ?ってほっぺたつねった。痛かったから夢じゃなかったし、次にやってもやっぱり気絶しそうになったもん。
もう、意識不明って感じ。重体だった。
出来たてのビールは美味いみたいだけど、出来たての炭酸水もやっぱ美味いわ。


そいから、介護に於いて。
やっぱり経験者だと本当に身に沁みると思う。
介護に於いては、知識と経験ではえらい違うと思わない?
テキストや講義で詰め込んだ知識なんてものは、実践では役に立つどころか、それに要した時間が無駄にさえ感じてしまうくらい。
一人ひとりが全く違っていて、結局は目的は入浴で同じかもしれないけど、そこに至るまでの登山道ってのは10人いたら10通りって感じだよね。

今は「ユマニチュード」が注目され始めてる。私もこれ、自然体で身につけたいなって思う。
フランス発祥のユマニチュードと呼ばれる認知症ケアメソッド。
・見つめる事
・話しかける事
・触れる事
・立つ事
でも、これは認知症ケアに関わらず、人に接する時の基本ともいえそうですよね。

どこか介護する側が上から目線になってしまったり、尊厳を置き忘れたり、感情で捉えてしまったり・・・どうしてもありがちです。
やはりどんな時も、基本は相手が人であると言うことだけは忘れずにいたい。きれいごとじゃなく、ね。

いつもありがとね。
なんか励みになります。
感謝です。
Posted by 無有のかぁちゃん無有のかぁちゃん at 2014年07月01日 21:17
うちのバーヤは、不穏出現少ない、穏やかな生活を外で送ってもらっている
内蔵丈夫なので健康で暮らせています
疾病入院となると、24H365day付き添いが再び・・・

参考にして、ずっと読み続けている介護もの
見つけた時は、過去ログまで全部遡って読みつくした

●オムライスさんの『認知症の母、在宅介護から特養生活へ』

●おちょぶーさんの『ゆるゆると』
おちょぶーさん、会話再現upに笑ったり泣いたり

認知症への理解が進まない、知識の差がある家族と一緒に
お世話している時が、イライラMAXでした
見る、と、看る、違うと思うなぁ
老老介護はやはり難しい
時代が違うと、受けた教育理念がぜんぜん違う
Posted by りんこりの at 2014年07月01日 22:05
あー、この曲知ってる~。
ねぇ~。
自分がして貰ったこと…もそうだけど
これって、時代が繋がっていくというか…。
そういうものなんだよね。
その人と血がつながってなくても。
自分もいずれその時がくるし。
そうやって、時は流れていくんだよねぇ。

って、自分で書いてて、わけわかんなくなってきた。笑。

実親だけでなく、世の中のお年寄りは
世の中の子供達へと繋がっていく…みたいな。
Posted by はなまま*はなまま* at 2014年07月01日 22:10
りんこりのちゃん

何が幸せか。
当人にとって何が一番幸せなのか。
それって認知症になってしまったら、聞きだすことが難しい。
そして、その「幸せ」の内容は当人にしかわからない。

これが私の率直な感じ方でした。

私ら介護する方の目から言ったら、キレイであってほしい、とか、十分な栄養を取ってほしい、とか・・・それって私たちの「見栄」なんじゃないか?って感じるようになった。

認知症の理解がない人と介護をするというストレス、めちゃくちゃわかります。
価値観の相違、って言葉じゃ済まされない感情が沸々と・・・。

見る、観る、視る、診る、看る
みる、にはいろいろな字があるけれど、どれも意味や立場が異なるように感じます。
傍観者になってはいけない、って思う。
私は看る、そして看取る立場でありたい。
私はよく「死」の話をするけど、人間生まれたからには死にます。そして私は幸せに死ねるって事は生きてることが充実してたって事じゃないかな、って思うの。
死に方にはいろいろとあると思う。
でも、一般的に老衰なんかで死ぬ場合は、朽ちて行く間、枯れて行く間、その瞬間が来た時に「あぁ、生まれてきてよかった」って思ってもらえるような生き方、逝き方してほしい。
死は不可抗力だけど、人の気持ちは不可抗力じゃないよ。愛を与えれば愛で返って来る・・・。いくら認知症でも私はそこは本能的に失われることはないんじゃないか、と信じたい。

認知症のブログ、参考にさせてもらうね。
私は相方がプロの医療従事者なので、介護においても困ることはないけど、プロの目からの介護、私らアマの介護ってあると思う。私自身がもっと、当人に寄り添った介助や介護ができるように成長したいです。
Posted by 無有のかぁちゃん無有のかぁちゃん at 2014年07月01日 22:52
はなままさん

はなまま、めっちゃいいこと言うやん。
たまには、はなまま、マトモになるんだなぁ。笑
いや、大粒の雹なんて降らせないでくれよ・・・。

はなままの言ってることは、言語的には難しいけど、直感的によーく伝わって来たし、納得。

これってのが、きっと、「撒いた種は刈り取る」「因果応報」「引き寄せの法則」「輪廻転生」etc 色んな表現で言われ続けてるモンの本質じゃないか?って思えたよ。

誰かがおってもおらんくっても、時は感情なく一定に流れて行く・・・。
たとえ私が明日死んでも、最愛の人が明後日死んでも、やっぱり時は刻まれていく。
そんな中、後世に残せるものってのは「生き様」って言う、その人の生きた証とか、その人の言葉だったり、それそのものではなく、外部の人間が繋いでいくものなんだろうね。伝承とか継承って形のあるものではなく、大元はみな同じだけど、どこか継承するうちに違ってきちゃったり、派閥ができたり・・・。でも、そうやって形を変えてもずっと残るものはやっぱり必要とされてるものなんだろう。

宗教などでも残る、残らないはあるけど、残るには残る意味があり、残らないには残る必要性がないと言う意義があるのかもしれないね。
私たちは、だから、意味あってこの世に生まれてきたんだろうね。
さて、もうUターン地点は過ぎてる。あとどれだけ学ぶことができるか、吸収し、成長することができるか。
すべての事象に意味があるとするのであれば、毎日は宝の山だね。
そして、別れた分だけ出会いが来る。
Posted by 無有のかぁちゃん無有のかぁちゃん at 2014年07月01日 23:00
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